少し前からツイッターを使っておりまして、個人的にはインターネット大喜利的な活用の仕方で楽しんでおります。
バッタ「なぜコオロギばかり…」
— ヒヨリ (@hiyori_miru) July 26, 2022
こういった楽しい?話題なら良いのですが、いわゆる反コロナワクチン的な文脈の投稿を見ると、少々眉をひそめてしまうものもあります。
それは、ことさらコロナワクチン接種賛成派やマスク着用賛成派を馬鹿にしたような言説について。
個人的には、コロナワクチンのリスクやマスクの是非については、主義主張を強く押し出す時期はすでに終わっていると思うのです。
今後必要な事は、それぞれの認識を尊重して、他人の思想信条に殊更介入しない事、この前提を固めていく必要があります。
緊急事態条項が創設されても国民が正気なら大丈夫
自民党案の憲法改正について、緊急事態条項を非常に危惧している方は、特に反ワクチン界隈では多い事と思われます。
それ自体は自分も危惧しておりますし、阻止できるものなら阻止したいとも思っています。
しかし、実際の所自分がもっと重要だと思っているのは、仮に緊急事態条項的なものが施行されて、ワクチン接種が義務化されたような場合であっても、極端な行動をとらないだけの「正気」を日本国民全体が持ち続けられるか否かという点だと思っています。
つまり、仮に政府が「コロナワクチン接種を義務化します」と言ったとしても、自分のように絶対に打たないと決めている人間に接種させるとすれば、それはもう文字通り「力ずく」です。
羽交い絞めにして、二の腕を捲りあげ、無理やり注射をズブっとする・・・こうでもしないと自分のような人間は決してコロナワクチンを接種しませんから、本当にやるのならこういった事になります。
しかし、国民が正気ならこんな状況を許容しません。
仮に政府が命令を出したとしても、現場の人間がそれを実行しなければ、ワクチン強制接種などという悪夢は現出しないのです。
仮に実行する立場の人間が様々な理由で強制接種に対して積極的だったとしても、大多数の国民が「それはおかしい」と認識していれば、そのような非道な行動が社会的に許容される事にはなりません。
つまり、緊急事態条項というものがあろうがなかろうが、一番大切なのは国民全体の正気度なのです。
繰り返しになりますが、自民党による緊急事態条項は現在の政府の行動を見ている限り非常に危険だと言わざるを得ませんので、これについては明確に反対します。
しかしそれよりも重要なのは、国民の意識、認識、まともさです。
コロナ脳を敵視する思考は結果的にこちらへ帰って来る
ワクチン接種が有効だと思っている人、マスクの着用が有効だと思っている人、こういった人に対して「違うと思いますよ」という事を(多少乱暴な態度であっても)強く主張する段階はすでに過ぎています。
現時点においてワクチンの効果を疑わず、マスクの必要性を強く認識している人は、そう信じるに至る原因となっている情報源(多くの場合でテレビ)がその点に疑念を強く示すような状況にならない限りは、第三者が何を言おうが現実問題としては、もう考えを変える事はないのだろうと思います。
ですから、ワクチン接種に反対であり、マスクの着用も基本的に止めた方が良いと思っている方々としても、今後は「ワクチン接種もマスク着用も個人の自由」という主張を前提としたうえで、ご自身の主張(ワクチンのリスクやマスクの有害性など)を発信する事を心掛ける必要があります。
誤解しないで頂きたいのは、決してコロナワクチンのリスクだとか、現状起こっている事のおかしさだとか、マスクの害といったものを他人に伝えるべきではないという話ではなく、「基本的にはなかなか理解されないだろうな」という認識を前提としたうえで発信していくべきだという事です。
平たく言えば、「とりあえず諦める」という事ですね。
諦めた前提で発信する事、この姿勢がないと、こちら側と世間の温度差が大きすぎて、ことここに至っては全く伝わり様もない段差となっているのが現状です。
ですので、重要なのは日常会話にしれっと混ぜ込む事、ちょっとした違和感をほのかに感じる程度のものとして、不快感を掻き立てない事、それが重要です(そう、冒頭のコオロギのように…いや、コウロギの粉末は違和感の欠片も感じられない代わりに裏面を見た時の衝撃は凄そうですが)。
どうもツイッターを覗いていると、ワクチン接種者やマスク着用者などを殊更馬鹿にしたり、敵視したりしている投稿も散見され、その中のいくつかは意図的な分断工作ではないかと思えるものもあります。
意図的な工作ではないにしろ、反ワクチンや反マスクといった主張をする方と、コロナ脳的な主張をする方の溝を深める結果を生むような言説は、今後は特に慎みたいところです。
それこそ、便宜上使っていますが「コロナ脳」というような表現も、もう止めた方が良いのでしょう。
なにしろ、その溝が深ければ深いほど、先ほど触れたような緊急事態条項などが制定された場合のリスク(ワクチン接種の義務化などは特に)が上昇する事になりますから。
コロナワクチン接種が日本で始まる前の段階であれば、多少強引になってもコロナワクチンのリスクを喧伝する事が何よりも必要だったと思います。
しかし多くの国民が2回までの接種を済ませ、3回接種も相当数にまで及んだ現状では、コロナワクチンのリスクを喧伝する事も大切ではありますが、それと同じぐらいに「各々の選択の自由」という点をやや強めに強調する必要がある段階である事は確かだろうと思います。
マスクの着用についてはもう少し複雑で、大人については個々人の判断で決めれば良いとは思うものの、子供達への影響を考えればマトモな大人であればマスクを着けない選択をするべきではないかとの意見もあるでしょう。
両者に共通して言える事は、「大人は自分で判断、子供は一律で止める」という事を基調とするのが、これからのコロナワクチンやマスクに対する基本姿勢であるべきなのでしょう。
「コロナワクチンの功罪評価は早々には断定できないので、大人は自分で判断、子供についてはコロナでの被害が少ない点と当人に責任能力がない点を考慮すれば、一律で停止するのが望ましい」
こういった言説であれば、よほど強固なコロナワクチン接種推進派でなければ、そう簡単には非難しづらいでしょう。
マスクについては中々悩ましいところですが、とりあえず夏場について熱中症のリスクという観点も後押ししてくれますので、「基本的には外しましょう」「マスクの効果については賛否両論ある」「それでもマスクの着用が有効だと思う方が着用する分には尊重する」「子どもについては発育への悪影響も強く指摘されているので一律で外した方が良いだろう」といった主張で行けば、そこまで強い拒絶反応は出てこないのではないでしょうか。
こういった主張をして行く事で、出来るだけ社会的に多くの人が同じ土俵の上で対話できる環境を作り守っていく事、それこそが政府が強権を振るった場合に最も強く意味を持つ我々国民が出来る最大限の自衛策です。
複数の視点で物事を照らして交点を得る習慣をつける
繰り返しになりますが、最終的に一番重要なのは国民一人一人の正気度です。
これを得るためには、まずはテレビを見ない事。
今回のコロナ禍であまりにも露骨に出ましたが、テレビは国民世論を一方向へ誘導しますので、ここまで馬脚を現している現状なら情報源の一つとしてすら扱う必要がないでしょう。
情報はネットで得る様にしましょう(少なくともネットが封鎖されるような事態になるまでは)。
ネット情報は出来るだけ様々な角度からの見解を照らして物事を精査する事。
とは言え、全ての情報を同様に扱っていては全く時間も労力も足りないでしょうから、「比較的この人の見解には理を感じる」という「見解が必ずしも一致しない複数人」を普段から認識して、一つの考えにはまり込んで憂き目に合う危険性を極力下げておきたい所です。
より具体的に言えば、GAFAに牛耳られたネット空間において、検索エンジンや大手グローバルプラットフォームに依存しない形での情報収集手段を確立しておくことが大切です。
さらに突き詰めて行けば、ネット回線が使えなくなったような状態まで想定するべきなのでしょうが、そこまで行くと現状ではちょっと対応しきれないでしょうか。
そういう意味では、紙媒体でもう少し正気度が高いものを作っておく必要があるのでしょう。
コロナ禍にしろウクライナ紛争にしろ、西側メディアの論調に乗っかって騒ぐだけの雑誌ではなく、より多角的な視点を提供してくれる、出来れば多くの人が許容できるような尖り過ぎていない紙媒体・・・参政党あたりがそういった動きをしてくれると良いですね。